2012年8月10日金曜日

科学はこれで良いのか


 私は以前からゲーテ(1747 -- 1832)に関心をもっている。多くの人はゲーテを偉大な文学者と思っているが、ゲーテは半生を自然研究に投入している。彼の思想も文学も実は、その研究から出て来たものだと私は考えている。当時は自然科学者という表現はまだなかった。ゲーテは自らを自然愛好家または自然研究者と称していたらしい。つまりゲーテにとっては自然を友とする人間が、自然を愛する対象としてよりよく知ろうとすることが即ち、自然研究であった。そして、自然を知るためには知的能力だけでなく、鋭敏な感性や豊かな想像力が大切だと考えていた。

 ゲーテの自然研究は全ての分野に及んだ。地質学、鉱物学でも多くの業績を残している。しかし、私が特に注目するのは1810年に完成した色彩論である。20年の歳月をかけて完成させた。ゲーテはこの著作が後世においてどのように評価さるかで世界の未来がかかっていると感じていた。彼が「色彩論」全三巻を「ファウスト」を含む自分の全ての著作の中で最も重視したことを知る人は少ない。

 その理由はこうである。当時はニュートン物理学万能の時代であった。しかも、産業革命のまっただ中であり、科学技術至上主義の時代であった。そして、彼は近代の発生を第一線で経験した人物でもある。7年戦争、アメリカ独立戦争、フランス革命、ナポレオンの英雄時代と没落を生涯の間にみとどけたのである。

 当時の自然科学は経験論に導かれたものであった。そのイギリス経験論を打ち立てたフランシス・ベーコンはこう言っている。「悠々と自然と共に歩むのでなく、我々がつきまとい、術策をもって自然を悩ませ、それによって自然の秘密を白状させるべきだ。」自然を外側から操作し、自然を利用することこそ人間としてやるべきことだと言っているのである。自然を機械仕掛として理解し、人間は自然を自由に操作し、そこから価値を生み出すべきだ。F・ベーコンの言葉「知は力なり」、これが全てであった。

 さらにこのことは、聖書にもその根拠を求めている。旧約聖書によれば自然も人間も神の被造物である。そして、人間は「神の姿」に造られ、神の代理として万物の霊長だと言うのである。

 ゲーテはこの考え方に危機感を持った。このまま行くと、自然科学によって世界が崩壊すると感じたのである。ゲーテは自然も人間も神のもとに一体であると考えた。自然の質的側面を重視した。分析によって「死せる自然」となり果てる自然でなく、「生きた自然」それ自体を研究対象とするべきだと考えた。人間を排除するのでなく、全体として、人間が再発見されるような科学を考えた。科学に「価値観」を入れるべきだと主張した。

 ゲーテはこの危機感を世に示すためにファウストを書いたのではないだろうか。色彩論で言いたかったことをファウストで書いたのだと私は思う。だから、ファウストの冒頭にはこう書かれている。メフィストは神に言う「人間どもに理性など与えない方がよかった。そんなものがあるからどんな野獣よりももっと野獣になることに理性を使うのだ・・・。」と、そこで神は「ファウストを知っているか」とたずねる。そして、「彼はいまでこそ混沌としているが、やがては理性の正しさを知るだろう。」と言って、神はファウストをメフィストの手に委ねる。ファウストの生涯はまさに今の世界を象徴しているように思える。最後に、メフィストと手下の悪魔が墓穴を掘る音を、民衆のたゆまぬ鋤鍬の音だと勘違いしながら、老いた盲目のファウストは死ぬ。今の世界も「科学」が掘った墓穴に落ちて死ぬのだろうか。

 例えば、宇宙を一冊の本に例えれば、文字を読んで書かれている文章の意味を知ることが大切なのであって、紙質やインクの材料を調べることではないとゲーテは言いたいのだと思う。


4 件のコメント:

  1. 最近、意欲的に様々な意見を発信され、
    共鳴する部分多々あり、大きな刺激を受けています。

    ブログ(教育部長の講義日記20120810)でも取り上げられ、
    多くの人々に関心を持たれればと願っています。

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  2. t.fujitaさん ありがとうございます。
    ぜひ皆さんに紹介して下さい。よろしくお願いします。

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  3. このコメントはブログの管理者によって削除されました。

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  4. 匿名の方のご希望で削除しました。

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