2011年7月9日土曜日

神秘について

アインシュタインの式を超える」
私達は神秘という言葉を忘れかけている。神秘という言葉を使うことを何か恥ずかしいことのように感じている。科学的無知だと思われるのがいやなのである。昼間の美しい青空が夕刻には美しい夕焼けに変わる。誰もが素直に美しいと感じるが、そこに神秘を感じることは少ない。昼間は太陽光が空気によって散乱し、その散乱光が目に入るので青く、夕刻は空気によって太陽光が拡散して人の目には主に赤い光が届くのだと納得している。しかし、そう思って美しい夕焼けを見ても、ただそれだけのことである。もしそこに何か神秘を感じることが出来たら、さらに大きな感動を感じることが出来るのではないか。そしてその感動こそ人を幸せにする元なのではないだろうか。
中途半端な科学信仰を投げ捨てて、もう一度神秘に対して心を開こうではないか。感動する心が私達を幸せにするのだから。
私達の五感は素晴らしいものである。目、耳、手、舌、鼻の持つ視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚は正に神秘である。それらを統括する脳はさらに神秘である。科学者はそれらが進化の過程で獲得した構造だと言っているが全くのこじつけである。
目は光を感じる。目は光あっての目であり、光もまた目あっての光なのである。この問題を生涯をかけて論じたのがかのゲーテである。人々はゲーテを文学者と思っているが本人はそう思っていない。この光と目の関係を正しく理解できるかどうかに人類の未来がかかっているとゲーテは真剣に考えていた。危機感を抱いていた。それはニュートン光学が一世を風靡していたからである。彼は20数年の歳月をかけて色彩論を完成し、その中で激しくニュートン光学を批判した。ニュートンの考えに従えば、光は単に光でしかない。しかし、光の神秘とその意味を問うならばゲーテの理論こそ正しいのである。
この光と目の神秘が私達に教えるものは何だろう。この四季おりおりに美しい花の咲き乱れる自然はたんに人間に利用されるべき存在ではない。
E=mc2というアインシュタインの式から考えると、全ての根元はエネルギーだと言うことになる。そして、科学者達はそのエネルギーの結果としての物質を研究の対象としている。誰もエネルギーのさらなる根元を考えていない。しかし、光と目の神秘は、全ての根元であるエネルギーに対して、光となり、目となるべき方向を与えるものの存在があることを私達に教えているのである。

今の科学はエネルギーそのものをコントロールする方法は知らない。エネルギーを持った物質を操作しているに過ぎないのである。そしてその物質に関する法則をいろいろと見出しているに過ぎない。微生物や細胞を顕微鏡で見てその微細な構造に驚いている。DNAを知っても、iPS細胞を作ってみても不思議はさらに多くなるばかりである。それらの複雑な仕組が突然変異によって獲得されたものだと、なぜいまだに科学者は言うのだろうか。わからないと正直に言うべきだ。
私達はいろいろな道具を使って物質を加工して、様々なものを作ることが出来る。これを不思議だとは思わないだろうか。もし仮により高い次元において、エネルギーという存在を直接操作することが出来る方法があれば、全ての命を統括して作ることが出来ても不思議ではない。この世界では如何に微細で複雑な構造だとしてもエネルギーの次元から見れば巨大な構造物である。人間が人工衛星を作ったり、ジェット機を作ったり、潜水艦を作るのと同じことである。より高い次元にはそのようにエネルギーを形にする方法があるのだと思う。
本当の世界のことを知るためには、今の物理学的、化学的操作を優先する還元主義ではできない。もっと自然全体、生命全体をとらえるような考え方が必要であるとゲーテは言いたかったに違いない。
今日まで、人々は神に代わることを考え自然を破壊してきた。本当のことを知るとは神に代わることでなく、自然の神秘にたいして本当に感動することだと私は思う。


霊界の存在

2003年から、宇宙背景放射を観測するWMAP衛星の観測によって、宇宙全体の物質エネルギーのうち、72%が暗黒エネルギー、24%が暗黒物質で、私たちが知っている物質は4%しかないことがわかっている。暗黒物質と言っても目に見える黒い物質という意味ではない。目には見えないが、引力だけは感じる不思議な存在なのである。暗黒エネルギーも同様である。引力を感じるということは、質量として存在しているのである。しかし目には見えない。私たちが使ういかなる測定装置でもその実体を捕えることは出来ない。私たちの周囲の空間の96%は未知なる存在によって満たされている。いま世界中の科学者が発見の先陣を切ろうとしのぎをけずっている。
また、私たちが見る物質は様々な原子から出来ていることは知られている。しかし、その原子の中の構造までは常識的にはあまり知られていない。簡単に言えばこうである。原子の中心にある原子核の大きさを1mmとすると周辺の一番近い電子までの距離はおよそ50mもあるのである。直径100mの球の中心に直径1mmの原子核があるのである。太陽が直径1mmの大きさになるまで太陽系を縮小すると、太陽系で一番遠い冥王星でも4.3mの距離にしかならない。原子の中の空間は、相対的には太陽系よりもずっとずっと広いのである。私達のこの体を構成している原子は想像を絶するスカスカのものなのである。
私達は目で見える物質というものが、何か確かなものだと思って来た。しかし実際は無に等しいのである。野球場ほどの空間の中心に針の穴ほどの物質があったとして、私達はそれに気付くであろうか。私達の体を構成している物質というものは極々僅かなのである。私達の体から空間部分を取り除いたら、全く目に見えない微粒子になってしまうのである。
私達は96%もの未知なるものに囲まれて生きている。しかも、その体といえば実際には無に等しい。しかし、私達は美しい環境に囲まれて、楽しく生きているのである。このように考えると、生きているということが本当に不思議に感じられる。私達の周囲の空間の96%が未知なものであるように、私達の命もまた何か未知なるものに支えられて生かされているのではないだろうか。この世界はまさに氷山の一角であって、大部分は目には見えない世界なのである。やはり、霊界とは死後の世界などではなくて、いま私達が住んでいる世界そのものなのではないだろうか。そして、本当の命と言うものは見えない世界に属しているのではないだろうか。体はもともと無に等しいのだから。