2011年9月13日火曜日

思うことと考えること


私達は、「思うこと」と「考えること」をあまり意識して区別することはない。しかし、もしかするとこれは大変大きな違いがあるのではないかと私は考えている。思う、と言う時には「心で思う」のであって、考える、という時には「頭で考える」という表現が普通である。したがって、「心」と「頭」が同じものであれば、「思うこと」も「考えること」も、ただ表現が少し違うだけだと言うことになる。

「思考」は確かに脳の働きである。しかし、「心」は脳の働きによって生じるものだろうか。最先端の研究の結果をもってしても、「心」が脳の働きだけによるものだという結論は出てない。私は医学の専門家ではないが、人間とは頭や手足などを別々に考えるべきでなく、全体が一つのものとして考えるべきではないかと思っている。そもそも人間は誰でも、最初は一個の受精卵だったのである。私達はこの事実を忘れているのではないだろうか。分子生物学の発展によって、遺伝の仕組や細胞分裂の仕組が明らかになっている。それに伴って細胞の構造の解明も進んでいる。

私は、これらの研究成果から考えて、心の働きは体全体が関わっているのではないかと考えている。遺伝学にエピジェネティクスという分野がある。ここでこの内容を詳しく説明することは出来ないが、簡単に言えば、様々な条件による遺伝子発現を研究する分野である。そして、その条件の中に「心」に関係することも含まれている。私達の「思い」が、60兆個以上ある細胞の中で行われている遺伝子発現に対して、一時も休むことなく影響を及ぼしている。

私達の生体では数千万種と言われるタンパク質が重要な働きをしている。酵素やホルモンなどもそれらから作られている。そして、たんぱく質を合成するのは細胞の中であり、複雑な分子構造を決めているのは遺伝子の情報なのだ。そしてたんぱく質の機能はその分子構造で決まる。したがって、体に良いものが作られるか、悪いものが作られるかは遺伝子情報によって変わるのである。

いままで、遺伝子というものは親から子へ引き継がれるものであって、一生変化しないものだと思われてきた。しかし、エピジェネティクスによるとそうではないことが分かって来た。遺伝子は変わるのである。もう少し正確に言えば遺伝子発現は変化するのである。これは今まで突然変異と言われたものではない。しかも、その変わった結果は子孫へ遺伝するのである。はっきり言えば、遺伝子は心しだいで変わるものだと思っている。そして、ここに人間の本質があり、本当の進化論があると思っている。私が、心は全身に関わっていると言った理由もここにある。

人間は何千年にもなる長い闘争歴史の中で悪い獲得形質を遺伝させて来た。しかし、私達の心掛け次第ではその悪い獲得形質を清算できるのである。それが私達に残された大きな希望ではないだろうか。

私達が思考する時に脳はエネルギーを使う。脳のエネルギー源はブドウ糖である。では、私達の心が思う時のエネルギー源は何だろう。心が全身の細胞と関わっているとするなら、それらの細胞の中に特別なエネルギーがあるのだろうか。
 私達は、「思うこと」と「考えること」をあまり意識して区別することはない。しかし、もしかするとこれは大変大きな違いがあるのではないかと私は考えている。思う、と言う時には「心で思う」のであって、考える、という時には「頭で考える」という表現が普通である。したがって、「心」と「頭」が同じものであれば、「思うこと」も「考えること」も、ただ表現が少し違うだけだと言うことになる。

「思考」は確かに脳の働きである。しかし、「心」は脳の働きによって生じるものだろうか。最先端の研究の結果をもってしても、「心」が脳の働きだけによるものだという結論は出てない。私は医学の専門家ではないが、人間とは頭や手足などを別々に考えるべきでなく、全体が一つのものとして考えるべきではないかと思っている。そもそも人間は誰でも、最初は一個の受精卵だったのである。私達はこの事実を忘れているのではないだろうか。分子生物学の発展によって、遺伝の仕組や細胞分裂の仕組が明らかになっている。それに伴って細胞の構造の解明も進んでいる。

私は、これらの研究成果から考えて、心の働きは体全体が関わっているのではないかと考えている。遺伝学にエピジェネティクスという分野がある。ここでこの内容を詳しく説明することは出来ないが、簡単に言えば、様々な条件による遺伝子発現を研究する分野である。そして、その条件の中に「心」に関係することも含まれている。私達の「思い」が、60兆個以上ある細胞の中で行われている遺伝子発現に対して、一時も休むことなく影響を及ぼしている。

私達の生体では数千万種と言われるタンパク質が重要な働きをしている。酵素やホルモンなどもそれらから作られている。そして、たんぱく質を合成するのは細胞の中であり、複雑な分子構造を決めているのは遺伝子の情報なのだ。そしてたんぱく質の機能はその分子構造で決まる。したがって、体に良いものが作られるか、悪いものが作られるかは遺伝子情報によって変わるのである。

いままで、遺伝子というものは親から子へ引き継がれるものであって、一生変化しないものだと思われてきた。しかし、エピジェネティクスによるとそうではないことが分かって来た。遺伝子は変わるのである。もう少し正確に言えば遺伝子発現は変化するのである。これは今まで突然変異と言われたものではない。しかも、その変わった結果は子孫へ遺伝するのである。はっきり言えば、遺伝子は心しだいで変わるものだと思っている。そして、ここに人間の本質があり、本当の進化論があると思っている。私が、心は全身に関わっていると言った理由もここにある。

人間は何千年にもなる長い闘争歴史の中で悪い獲得形質を遺伝させて来た。しかし、私達の心掛け次第ではその悪い獲得形質を清算できるのである。それが私達に残された大きな希望ではないだろうか。

私達が思考する時に脳はエネルギーを使う。脳のエネルギー源はブドウ糖である。では、私達の心が思う時のエネルギー源は何だろう。心が全身の細胞と関わっているとするなら、それらの細胞の中に特別なエネルギーがあるのだろうか。 



ここで、私達は重大な問題に行きあたる。それは、心のエネルギー源が細胞の中にあるとすれば、私達の体が死んだ時に心も共になくなってしまう。しかし、もし体が死んでも心が残るのであれば、心は体とは別のエネルギー源によって働いていることになる。言い方を変えれば、もし心が外部に由来するエネルギー源によって働いているとしたら、体が死んでも心は残るということの証明にもなるのである。

強調したいことは、「考えること」と「思うこと」に関わるエネルギーは違うのではないかと言うことである。「考えること」にはブドウ糖が使われる。しかし、「思うこと」には何か別のエネルギー源があると私は考えている。冒頭で、これら二つのことは大きな違いがあるのではないかと言ったのはこのことである。

「思うこと」には、体の外部に由来する何か特別なエネルギーが関わっているということが事実であれば、これは大変大きな可能性を示唆している。と同時に、今まで説明することが出来なかった、心に関する多くの不思議な現象を説明することも出来るのである。「思うこと」によって、私達は非常に大きなエネルギーを制御できるである。そのエネルギーは体の外部に由来するエネルギーではあるが、人間のもっている特別の仕組で、そのエネルギーを体のエネルギーに転換できるのである。利用できるエネルギーに変換できるのである。すなわち、人間は「思うこと」によって、外部のエネルギーを体の中に取り入れるのである。
ここで外部のエネルギーと言うものは、霊界のエネルギーと言い換えても良い。少なくとも我々が住む時間と空間の外の次元であることに違いはない。人間の中にはその霊界のエネルギーを受け取る仕組がある。それが心と全身の細胞ではないかと私は考えている。このことは、もし私達が心を制御し「思うこと」を制御できれば霊界のエネルギーを全身に取りこむことが出来ることを意味している。

「制御できれば」と言ったことには意味がある。確かに、何でも良いから強く思えばそれなりに霊界のエネルギーを取りこむことができるだろう。しかし、悪い思いを強くすれば悪いエネルギーを取りこみ、細胞内の遺伝子発現に悪い影響を与える。これが癌発生の原因になる。今までは遺伝子の単なるコピーミスが癌の原因だと考えられてきた。しかし、遺伝子はミスなどしない。ちゃんと原因があるのである。癌にならないまでも、免疫に悪い影響をあたえ病気に対する抵抗力を失う。ホルモンバランスを崩し精神的に不安定になる。これらはすべて全身の細胞内の遺伝子発現によって制御されている。

「悪い思い」の代表は「憎しみや恨み」である。憎しみや恨みは人生にとって大切な二つのものを奪い去る。一つには、「主体性の喪失」である。前向きに生きようとする力を失う。自分自身の人生を見失う。二つには、「喜びの喪失」である。それまでの人生の中で得てきた喜びを全て失ってしまう。この恨みの思いが強いと細胞内に与える悪影響は甚大なものとなる。酷なようだが、危害を加えられたり被害を受けた立場だとしても、そしてたとえ正当な理由があったとしても、憎しみや恨みはやはり悪い影響を与えるだろう。「良い思い」とは、そうした憎しみや恨みを昇華することが出来るものでなくてはならない。

エネルギーに良い悪いがあるのか。あると思う。それが霊界のエネルギーの特徴だと思う。「良い思い」を強くし、心を楽しくすれば、良いエネルギーが全身にあふれるようになる。体から悪いものを追い出し、健康になるだろう。そして、そのような心は死後も永遠に続くのである。

2011年7月9日土曜日

神秘について

アインシュタインの式を超える」
私達は神秘という言葉を忘れかけている。神秘という言葉を使うことを何か恥ずかしいことのように感じている。科学的無知だと思われるのがいやなのである。昼間の美しい青空が夕刻には美しい夕焼けに変わる。誰もが素直に美しいと感じるが、そこに神秘を感じることは少ない。昼間は太陽光が空気によって散乱し、その散乱光が目に入るので青く、夕刻は空気によって太陽光が拡散して人の目には主に赤い光が届くのだと納得している。しかし、そう思って美しい夕焼けを見ても、ただそれだけのことである。もしそこに何か神秘を感じることが出来たら、さらに大きな感動を感じることが出来るのではないか。そしてその感動こそ人を幸せにする元なのではないだろうか。
中途半端な科学信仰を投げ捨てて、もう一度神秘に対して心を開こうではないか。感動する心が私達を幸せにするのだから。
私達の五感は素晴らしいものである。目、耳、手、舌、鼻の持つ視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚は正に神秘である。それらを統括する脳はさらに神秘である。科学者はそれらが進化の過程で獲得した構造だと言っているが全くのこじつけである。
目は光を感じる。目は光あっての目であり、光もまた目あっての光なのである。この問題を生涯をかけて論じたのがかのゲーテである。人々はゲーテを文学者と思っているが本人はそう思っていない。この光と目の関係を正しく理解できるかどうかに人類の未来がかかっているとゲーテは真剣に考えていた。危機感を抱いていた。それはニュートン光学が一世を風靡していたからである。彼は20数年の歳月をかけて色彩論を完成し、その中で激しくニュートン光学を批判した。ニュートンの考えに従えば、光は単に光でしかない。しかし、光の神秘とその意味を問うならばゲーテの理論こそ正しいのである。
この光と目の神秘が私達に教えるものは何だろう。この四季おりおりに美しい花の咲き乱れる自然はたんに人間に利用されるべき存在ではない。
E=mc2というアインシュタインの式から考えると、全ての根元はエネルギーだと言うことになる。そして、科学者達はそのエネルギーの結果としての物質を研究の対象としている。誰もエネルギーのさらなる根元を考えていない。しかし、光と目の神秘は、全ての根元であるエネルギーに対して、光となり、目となるべき方向を与えるものの存在があることを私達に教えているのである。

今の科学はエネルギーそのものをコントロールする方法は知らない。エネルギーを持った物質を操作しているに過ぎないのである。そしてその物質に関する法則をいろいろと見出しているに過ぎない。微生物や細胞を顕微鏡で見てその微細な構造に驚いている。DNAを知っても、iPS細胞を作ってみても不思議はさらに多くなるばかりである。それらの複雑な仕組が突然変異によって獲得されたものだと、なぜいまだに科学者は言うのだろうか。わからないと正直に言うべきだ。
私達はいろいろな道具を使って物質を加工して、様々なものを作ることが出来る。これを不思議だとは思わないだろうか。もし仮により高い次元において、エネルギーという存在を直接操作することが出来る方法があれば、全ての命を統括して作ることが出来ても不思議ではない。この世界では如何に微細で複雑な構造だとしてもエネルギーの次元から見れば巨大な構造物である。人間が人工衛星を作ったり、ジェット機を作ったり、潜水艦を作るのと同じことである。より高い次元にはそのようにエネルギーを形にする方法があるのだと思う。
本当の世界のことを知るためには、今の物理学的、化学的操作を優先する還元主義ではできない。もっと自然全体、生命全体をとらえるような考え方が必要であるとゲーテは言いたかったに違いない。
今日まで、人々は神に代わることを考え自然を破壊してきた。本当のことを知るとは神に代わることでなく、自然の神秘にたいして本当に感動することだと私は思う。


霊界の存在

2003年から、宇宙背景放射を観測するWMAP衛星の観測によって、宇宙全体の物質エネルギーのうち、72%が暗黒エネルギー、24%が暗黒物質で、私たちが知っている物質は4%しかないことがわかっている。暗黒物質と言っても目に見える黒い物質という意味ではない。目には見えないが、引力だけは感じる不思議な存在なのである。暗黒エネルギーも同様である。引力を感じるということは、質量として存在しているのである。しかし目には見えない。私たちが使ういかなる測定装置でもその実体を捕えることは出来ない。私たちの周囲の空間の96%は未知なる存在によって満たされている。いま世界中の科学者が発見の先陣を切ろうとしのぎをけずっている。
また、私たちが見る物質は様々な原子から出来ていることは知られている。しかし、その原子の中の構造までは常識的にはあまり知られていない。簡単に言えばこうである。原子の中心にある原子核の大きさを1mmとすると周辺の一番近い電子までの距離はおよそ50mもあるのである。直径100mの球の中心に直径1mmの原子核があるのである。太陽が直径1mmの大きさになるまで太陽系を縮小すると、太陽系で一番遠い冥王星でも4.3mの距離にしかならない。原子の中の空間は、相対的には太陽系よりもずっとずっと広いのである。私達のこの体を構成している原子は想像を絶するスカスカのものなのである。
私達は目で見える物質というものが、何か確かなものだと思って来た。しかし実際は無に等しいのである。野球場ほどの空間の中心に針の穴ほどの物質があったとして、私達はそれに気付くであろうか。私達の体を構成している物質というものは極々僅かなのである。私達の体から空間部分を取り除いたら、全く目に見えない微粒子になってしまうのである。
私達は96%もの未知なるものに囲まれて生きている。しかも、その体といえば実際には無に等しい。しかし、私達は美しい環境に囲まれて、楽しく生きているのである。このように考えると、生きているということが本当に不思議に感じられる。私達の周囲の空間の96%が未知なものであるように、私達の命もまた何か未知なるものに支えられて生かされているのではないだろうか。この世界はまさに氷山の一角であって、大部分は目には見えない世界なのである。やはり、霊界とは死後の世界などではなくて、いま私達が住んでいる世界そのものなのではないだろうか。そして、本当の命と言うものは見えない世界に属しているのではないだろうか。体はもともと無に等しいのだから。


2011年6月2日木曜日

アインシュタインの式のふしぎ

 E=mc2という式は誰もが知る式ですが、これはアインシュタインが26才の時に考え出した式です。この式を見て誰もがまず思うのはわずかな質量から膨大なエネルギーが出るということです。この式は、もし一円玉ひとつを完全にエネルギーに変えることが出来たら、一家庭が 6000年以上使うことの出来る電力を得ることが可能だと言っています。それはもう想像を絶する話です。

ところが、この式にはもっと驚く意味が含まれているのです。それは「止まっているものがエネルギーを持つ」という意味です。しかし、止まっているものがエネルギーを持つはずがありません。しかし、この式はそう主張しているのです。

この式に矛盾しないように考えれば、止まっている物の中に何か動いているものが入っていてその運動エネルギーがその物の質量として見えていると考えなければなりません。
原子核の中の陽子と中性子の中にはクォークと言われるものが入っていて、それが光速に近い速度で運動しています。ですから、クォークの運動エネルギーが陽子と中性子の質量であり、それが原子核の質量であり、原子の質量となります。例えば、我々の体重は実はクォークの運動エネルギーだと言うことになります。上の式から計算すると、我々の体を構成するために使われているクォークのエネルギーは膨大なものだと言うことになります。

しかし、この考えには限界があります。クォークにも僅かですが質量があります。ではそのクォークの中にも何か動くものがあるのかと言うことになります。電子にも質量がありますから、電子の中にも何か動くものがなければなりません。これが今の物理学の大問題になっています。

動くものが入っているという考えとは別に、その物自体が別次元で動いていてその運動エネルギーがこの次元に表れていると考えている人がいます。我々は縦横高さの三次元にいます。四次元での運動を観測することは出来ません。しかし、その四次元での運動エネルギーが三次元に質量として表れていると言うのです。

先ほどのクォークや電子は、実は四次元の世界を元気よく飛びまわっているのではないかと考えている人がいます。その運動エネルギーがそれぞれの質量になって表れているのです。
E=mc2という式の持つ「止まっているものがエネルギーを持つ」という根本的な矛盾は、実は別次元の存在を証明する手掛かりになるのではないかと私は考えています。